
ある少女たちの話
むかし、アプラという国に1人の女の子がいました。
その女の子は名前をイノセンスといい、カールした真っ白な長い髪に、吸い込まれてしまいそうな赤い瞳を持つ美しい少女でした。
皮膚が弱く、生まれたときからずっと日の光を知らないイノセンス。外に出ることができない彼女にとって、この薄暗い小さな家の中だけが世界のすべてでしたが、彼女は自分が不幸だと思ったことはありませんでした。
それはきっと、彼女の側にはいつだって 誰よりも愛しい人がいたからでしょう。
その愛しい人は名前をジェナといい、赤いくせっ毛に オリーブ色の瞳を持った活発な女の子でした。彼女は おとなしいイノセンスとは見た目も性格も対照的でしたが、ジェナもまたイノセンスのことを誰よりも愛していました。その愛する心とは彼女たちが出会ったときから変わらずに、ずっとそこにありつづけたのです。それくらい、二人の愛は深いものでした。
「あなたの目は、美味しいイチゴみたいに綺麗な赤い色。知ってる?東の国の言葉で、イチゴのことをマイって言うんですって。
だから、これからあなたのことマイって呼びたいの!」
二人が暮らしているのは、おおきなたてものか並ぶ街の中に隠された ちいさなちいさなアパートです。むろん、まだ大人ではない彼女たちは、ふたりぐらしをしているわけではありません。イノセンスは優しい母親と父親に囲まれて、一方でジェナは病に伏した祖母と二人で一緒に暮らしていました。
「……そう、かわいいなまえ。うれしい。」
日光を避けなければならないイノセンスと、お金のないジェナ。二人は物心ついたときから、この日の当たらないアパートで助け合って生きてきたのでした。
ところが近年になって立て続けに、新たに三組の家族がこのアパートにやってきたのです。友達が増えるわ、と、ジェナは大喜び。
一方でイノセンスは最初、彼らのことをすこし不思議に思っていました。わざわざこんなところを選ばなくてもいいのに、と。アプラには、もっと素敵な家がたくさんあるからです。
しかし、三組目の羊の家族がやってきたときにイノセンスは、やっとその理由がわかりました。皆一様に 人間の身体を持つ動物だということに気づいたのです。事実、イノセンスの耳はウサギの耳で、ジェナの耳は猫の耳でしたが、その身体は共に人間のものでした。
彼女たちのような姿をした動物は「ヒトガタ」と呼ばれ、かの女神たちを傷つけた悪魔フマンを連想させると 昔から忌み嫌われてきた存在です。
このあたりの国は、長期にわたって他国との戦争が絶えることのなかった、非常に不安定な場所でした。その争いの原因を、はじめにこの地域に混乱を招いた人間のフマンにあると考える動物たちが、最近急に増えてきたのです。
家から出られないイノセンスたちには知らされないうちに、「ヒトガタ」はますます迫害されていたのでした。
「ヒトガタが、捕まえられてる。」
さいしょに気がついたのは、ジェナでした。買い物からの帰り道、軍隊の服を着た動物たちが、あたりにいたヒトガタに暴行をくわえたかと思うと、おおきなトラックにのせて、どこか知らないところへ運んで行ってしまったのだそうです。
イノセンスたちは、恐れ慄きました。ジェナはうまく隠れられたそうですが、もしもそこで彼女が捕まっていたらと思うと、気が気でなりません。アパートの住人たちは、いちどにイノセンスたちの家に集まり、ラジオをつけました。
するとラジオから聞こえてきたのは、「この世界の争いの根源、醜い心の根源であるヒトガタを、一人残らず排除せよ!」という恐ろしい放送だったのです。
羊の性質を持つ双子の娘、クラリスとアリスは抱き合って泣きました。ジェナとイノセンスが静かにその手を握る中、かしこい犬のドロシーは呆然として、熊の子ミッチェルは父親にしがみついていました。
これはただ事ではありません。民族浄化が始まってしまったのです。
その次の日から、街は地獄のようでした。テレビをつければ、近隣の国のあちこちで暴行を加えられ、トラックにのせられるヒトガタの動物たちの姿がありました。彼らが行く先はわかりませんが、おそらく帰ってくることはできないのでしょう。
このアパートは市街地からだいぶ離れていましたが、それでも、人々の叫びが聞こえてくる程です。
軍の者たちに見つかってはならない。そう判断した家族たちは、電気をつけること、買い物に行くことをやめました。隠れ家生活のはじまりです。
幸いにも、近所にはおなじヒトガタで自家農園をしている夫婦がいましたから、彼らの農作物を分けてもらうことはできましたが、それでも、5組もの家族のお腹を満たす量ではないのは明らかでした。
それに、いずれその夫婦が見つかってしまえば、彼らの供給は断たれ、皆一様に餓死してしまうでしょう。
ただその前に、この警備の厳しいアプラの警察や軍隊に、この5組の家族のうち誰かが見つかってしまえば一巻の終わりなのです。
彼らの神経は擦り切れていく一方でした。
ところが、そんな隠れ家生活が何ヶ月か過ぎた頃、熊の子ミッチェルの父親が提案しました。
「カルムに亡命しないか」と。
聞けば、彼の知り合いがカルムにいるそうなのです。カルムはアプラに比べておだやかな国民性で、警察も弱いのだと。夜中のうちに船で漕ぎ出して、その知り合いの元で匿ってもらおうという作戦でした。
羊の一家と、犬の一家は大賛成。もう、このような苦しい生活から早く脱却したかったのです。イノセンスの父親、母親も賛成のようでしたから、彼女はジェナに言いました。わたしたちも、一緒に逃げましょうと。
しかし、ジェナの返事はこうでした。
「……ごめんなさい。」
彼女には、病気で弱り果てたおばあさんがいるのです。そのおばあさんを連れて出て行くことは、双方にもかなりの負担になると考え、自分たち二人は残ると宣言しました。
これに、イノセンスはショックを受けました。いつまでも一緒に居られると思ってたのに、です。その晩、彼女はジェナに泣きつきました。貴女がいないとわたしはだめになってしまう、と。
すると、ジェナは、涙を流してなだめるように言いました。
「私も同じよ、マイ。あなたがいない生活なんて、おかしくなってしまいそう。
でもね、いまは生きることが先なの。すこしだけ離れていても、生きてさえいればまた会える。あなたはカルムで、わたしはアプラで生き延びて、この争いが終わったらまた会いましょう。」
「嗚呼、どうか、約束してね……愛しいジェナ。」
そうして二人は約束を交わし、長い長いキスをしました。そうして、イノセンスもアプラを出ることを決意したのです。
明くる日の丑三つ時、イノセンスのいるウサギの家族、ドロシーのいる犬の家族、クラリスとアリスのいる羊の家族、そして、小熊ミッチェルとその父親。4組の家族は、カルムに向かって小舟を漕ぎ出しました。
それは不気味なほどに静かな夜でした。
南に下っていけば、カルム東部の港か、もしくは北部の岬に着くはずです。
その推測通り、やがて彼らは北部の岬に到着しました。
しかもなんとそこにはミッチェルの父親の知り合いまでが待機してくれていたのです。
しかし、次の瞬間、船から降りたミッチェルの父親は、突然殴られたかと思うと後手に縄を縛られて、海に沈められてしまったのです。
「パパ!!」
それは一瞬の出来事でした。
気がつけば、辺りにはカルムの軍隊か、もしくは警察だと思われる動物たちが待機しているではありませんか。と。彼らは、罠に嵌められたのです。
「ガキどもを下ろせ!!」
そうして船に群がる彼らによって、イノセンス、ドロシー、ミッチェル、クラリスとアリスだけが岸に上げられた次の瞬間、船は爆破され、その家族は揃って海の藻屑となりました。
「あ……あ……ママ……パ、パ……!」
恐怖で皆、声が出ません。カルムにたどり着いた彼女らに待っていたのは、地獄のような仕打ちでした。

次の日の朝、カルム北部の切り立った崖の上。そこには三つの死体が転がっていました。
それは罪悪感と、恐怖に目を見開いたミッチェル。乱暴され、ぼろぼろになったアリス。そして、愛しい妹を壊され、気が狂ってしまったクラリスでした。皆、昨晩の男たちによって撃ち殺されたのです。子供達だけを先に下ろさせたのは、こうして悪趣味な殺し方をするためでした。
そうして、強い日差しに弱い身体が侵される中、自身をかばって撃たれたドロシーを抱きしめるイノセンス。彼女は、なおも銃を向け続ける猫の男に言いました。
「……なぜ、こんなことをするの?」
「お前たちが、ヒトガタだからさ。」
その瞳には純粋な悪意と、おそろしいまでの民族浄化精神、そして、「楽しい」という心が宿っていることに気がつきます。
(わたしたちは、なぜ、生まれてくる姿を選べなかったの?
嗚呼、このような方たちの快楽のために、わたしたちの命はここで終わるのね。
嗚呼、最後に、最後に……会いたかった。)
世界に絶望した彼女は、光の宿らない瞳を閉じると、身体に強い衝撃を覚えて、そのまま海へと落下したのでした。