
3月の追福
すべてを忘れた児女の話
むかし、アプラという国に1人の女の子がいました。
その女の子は名前をミッチェルといい、プラチナブロンドのショートヘアに、飴色の瞳を持つ、たのしいことがだいすきなクマの少女でした。
ミッチェルの母親は幼い頃に家を出て行ってしまったため、いまは父親と二人暮らしです。
彼女は、父の背中が大好きでした。暇さえあれば肩車をせがみ、その愛情を独り占めして、幸せに暮らしていました。
ところがあるとき、国家間での争いが激しくなり、いわゆるヒトガタへの風当たりが強くなってきたのです。
父は言いました。
「外で遊べなくなるかもしれないな。」
すると、ミッチェルはこう答えます。
「パパがいれば、ぼくはそれでイイ!」と。
それだけで父は、いくばくか救われるのでした。明るく優しい子に育ってくれた娘に感謝しつつ、彼女がこれからものびのびと生きていくためにと、彼らは路地裏にある一軒のアパートへ引っ越しました。
ちいさなアパートぐらしは快適でした。ミッチェルは、そこに越してくるなりジェナと、イノセンス、それからドロシーとも、友達になれましたから。ミッチェルは、このアパートに暮らす皆が大好きでした。
父はいつもこう言ってました。
「お前はまだ何も知らなくていいんだ。」
この世界に生きる大人たちは汚いから。お前だけでも純粋であってくれと。
ですから彼女は言いつけを守って、この世界の悲しいものやひどいもの、心を傷つけるものを知らずに、あるいはそれを忘却する術を身につけて生きてきたのです。
「なんだったっけ、忘れちゃった。ウフフ、でもね、それでイイの。」
ミッチェルはなにも知りませんでした。
この国が、長期にわたって他国との戦争が絶えることのなかった場所であることも。
民族浄化が始まっていたことも。
ですから或る日突然、ラジオから、「この世界の争いの根源、醜い心の根源であるヒトガタを、一人残らず排除せよ!」という恐ろしい放送が聞こえてきたそのとき。ミッチェルはあまりの恐ろしさに、父親にしがみつきました。彼女は本当に、誰よりも、なんにも、知らなかったのです。
その次の日から、隠れ家生活が始まりました。
「すまないな。」
そう父は言い、ミッチェルは答えました。
「いいんダ。ぼく、かくれんぼ大好きだから!」
貧しい5組の家族の生活はギリギリでした。誰かが見つかってしまえば、この生活が送れなくなったら、このアパートが暴かれたら、それはすべて死に直結することを意味していました。最初のうちは良くても、だんだんと、みな、精神的に参ってきたのです。
ですから、そんな生活が何ヶ月か過ぎた頃、ミッチェルの父は提案しました。
「カルムに亡命しないか」と。
カルムにいる知り合いと連絡が取れたのです。彼は言いました。カルムはアプラに比べておだやかな国民性で、警察も弱いと聞いていましたから。夜中のうちに船で漕ぎ出して、その知り合いの元で匿ってもらおうという作戦でした。
羊の一家と、犬の一家は大賛成。もう、このような苦しい生活から早く脱却したかったのです。 ジェナとおばあさんはここに残ることになったため、イノセンスとその家族は渋々と言った感じでしたが、合計4組の家族が亡命することになりました。
明くる日の丑三つ時、4組の家族は、ミッチェルの父が先導する下、カルムに向かって小舟を漕ぎ出しました。
それは不気味なほどに静かな夜でした。
やがて彼らは北部の岬に到着しました。その岬には、父の知り合いだという動物たちまでもが待機してくれていたのです。
しかし、次の瞬間、船から降りたミッチェルの父は、突然殴られたかと思うと後手に縄を縛られて、海に沈められてしまいました。
「パパ!!」
それは一瞬の出来事でした。
気がつけば、辺りにはカルムの軍隊か、もしくは警察だと思われる動物たちが待機していました。彼らは、罠に嵌められたのです。

次の日の朝、カルム北部の切り立った崖の上。そこにミッチェルは転がっていました。
「お前の父親は騙されたんだ。馬鹿だな。」
「こいつらは皆いまから死ぬんだ。」
「なぜだか分かるか?お前らのせいだよ。」
お前らのせいだ、という言葉が、彼女の脳に焼き付いてゆきます。
父は、間違っていなかったはず。ぼくたちは、間違っていなかったはず。どうして、どうして。遠くでアリスの悲鳴が聞こえて、肌をぼろぼろにしたイノセンスが怯えるのが見えました。クラリスが立ち上がり、男に殴られ、ドロシーは泣きだしました。
この惨状を、自分たちが作り出したというのならば–−
「終わりだ。」
そうして頭に銃口を当てられたミッチェルは、罪悪感と恐怖に目を見開いて、その短い生涯に幕を閉じたのでした。