海辺の教会で
「ずいぶんと長いこと、貴女と共に生きていたように感じます。
しかし私は、貴女のことをなにひとつ思い出すことができません。」
「不思議ね。わたしもずっと昔からあなたのことを知っている気がする。
それなのに、あなたがわからない。」
海辺の教会--それは、神の領域でした。
カルム島の南東部に建つ、島の中でもっとも大きな教会です。しかし不思議なことに、教会ができてからしばらくの間、その中には誰もいませんでした。
あるときこの教会に、泥酔した若者たちが窓の一部を割って足を踏み入れてしまったことがありました。するとその瞬間、彼らは一瞬で白い灰になって消えてしまったのです。
民衆は気づきました。
ここには誰も入ることを許されていなかったのだ、と。
いつしかそこは、皆が畏れる場所になっていました。
あるところに、モモという女の子がいました。
それは海の神様アンセの子。カルム(南の島の神様)の性質を受け継いだ薄桃色の身体に、深い海の色を映した藍色の瞳を持つ 少し特別な女の子です。
モモには三人の姉がいました。彼女たちはフォルス、アプラ、リシュ、カルムの四国間での争いをなくすべく それぞれの島に赴き、その島にある教会でアンセの教えを説くために、藍里(あいさと)の姓を受けてこの世に生まれてきたのです。
ところがカルム島には、ある悪魔が神々への復讐のためにかけた呪いが残っていました。呪いにかかったモモは、猫である母親の性質を完全に無視して、人間になってしまったのです。
アンセは、たったひとりぼっちで、しかもひどく忌み嫌われていた人間の姿をして現世に赴く幼い娘を不憫に思い、彼女に似た一体の人形を与えました。
彼女は人形を気に入り、イリニ(irene:平和を意味する。アイリーンとも読む。)と命名します。襟元にはブローチを付けて、お花のステッキを持たせて、まるで妹のように可愛がりました。
そうして江西は、神父として初めて海辺の教会に足を踏み入れました。影からその様子を蔑んだ目で見る者もいましたが、一向に灰になる気配のない彼に、たいへん驚いたといいます。そして彼を畏れてか、その後ろ姿に野次を飛ばす者も、 追いかけて教会に入ろうとする者もありませんでした。
海辺の教会は、それはもう美しい場所でした。何百年もの間そこには誰もいなかったはずなのに、窓のステンドグラスはまるで先ほど作られたばかりであるかの如く煌めき、どこを見渡しても埃一つ落ちていません。
その青いステンドグラスを眺めていると 突如として海に潜ったかのような感覚に陥り、彼はすこし不安になりましたが、これも神様の示した道なのだろうと 祭壇に向かって静かに祈りを捧げるのでした。
そしてまたあるところに、江西 明哲(えにし めいてつ)という神父がおりました。
彼は誠実さと謙虚さを兼ね備え、誰よりも厚い信仰心とおだやかな心を持っていました。
しかし、彼もまた人間のような姿をしていたために差別され、日の当たらない山奥の教会でひとり神に祈りを捧げるような毎日を送っていたのです。
彼のこころの強さを知っていたアンセは、彼とモモへのせめてもの救済として、娘が地上に降り立つすこし前に、彼の夢枕に出て言いました。
「あなたに、海辺の教会に来てほしいのです。そこにはもうじき幼い女の子がやってきます。どうか彼女と共に 神の教えを民衆に説き、この島を守ってはいただけませんか」と。
それからしばらくして、モモがやってきました。年齢にしておよそ2〜3歳でしょうか。彼女が来てからは今までの出来事が嘘であったかのように、その教会には誰でも入れるようになったのです。こうして江西は幼いモモを育てながら、民衆へ神の教えを説くのでした。
その中で江西は、モモから「ニシメ」という呼び名で親しまれるようになります。
二人の暮らしはお祈りばかりの日々ではなく、彼はモモを貴び、彼女が興味を持つものにできるだけ多く触れさせました。
また、匿った少女から「イリニの友達」と称された奇妙なぬいぐるみを受け取ることがあったり、モモがいつの間にか心得ていたバレエを皆に披露するなど、それは非常に充実した 愉快なものであったといいます。
しかし、幸せは長くは続きませんでした。モモが10歳になってしばらくした頃、戦争が起きたのです。それは彼女が止めようとしていた民族戦争でした。人間を悪だと考えた過激派が、人間のような見た目をして生まれてきた動物たちをひとり残らず狩り殺すと、そう宣言したのです。
過激派は、真っ先に海辺の教会にやってきました。そこには彼らがいることが分かっていたからでしょう。江西は、モモだけは殺してはならぬと最後まで彼女を守ろうとしましたが、彼らの暴力の前に倒れ、死んでしまいました。海の神アンセが気付いたときには、もう遅かったのです。
美しい教会は、一瞬で血の海と化しました。祭壇の前に折り重なるようにして眠る二人の顔は、無残にも切り刻まれて もうその表情すら分かりません。
アンセは深く悲しみ、自分の非を恨んで何日も何日も泣き続けました。海は荒れ、ごうごうとうなり、小さな島々を飲み込んでは海に住むものたちを震え上がらせたのです。
†
ところが、その事件からしばらく経ったある日のこと。
海辺の教会で、ある一体の人形と、ひとつの奇妙なぬいぐるみが動き出したのです。
人形は、自分がいた部屋のドアを開けると、いつのまにか綺麗になっていた祭壇の前に鎮座する、奇妙なぬいぐるみの前にやってきて言いました。
「あなたはだれ?」と。
「分かりません。」
ぬいぐるみは答え、こう続けます。
「ずいぶんと長いこと、貴女と共に生きていたように感じます。
しかし私は、貴女のことをなにひとつ思い出すことができません。」
「不思議ね。わたしもずっと昔からあなたのことを知ってる気がする。
でも、あなたがわからない。」
その言葉に、人形はこう返しました。
そして、だから分からない方がいいのかもしれない。
と付け加えると、彼女は静かに目を閉じました。
「……イリニ?」
するとぬいぐるみは、なにやら彼女の聞き慣れた名前をつぶやいたのです。
「その名はどこで?」
「刻まれているのです。貴女の胸の……その、宝石に。」
イリニと呼ばれた人形が目を開けて首を動かしてみれば、"IRENE"という文字が小さく彫られたブローチが胸についているのが見えました。
「ああ……」
その瞬間、嬉しくて、それでいて切なく、目頭が熱くなるような
なんとも言えない感覚に襲われました。
しかし、このイリニという名がなにを意味するのか、どうしてこんな気持ちにさせられるのか、彼女には分かりません。
それはあなたの名前かと問われましたが、いまはそれすら分かりませんでした。思い出してはいけない記憶なのか、それとも--。
「いいえ、わからない。だけど、きっとそう。わたしは心を持たない人形のはずなのに、こんなにも胸が苦しい。」
その言葉を聞いた彼女の目の前にいるぬいぐるみは、なにも言わずにゆっくりと頷きました。
無表情なその顔つきからは、なにを考えているのか見当もつきません。けれども彼の心は穏やかなものであると、イリニにはまるで手に取るように分かるのでした。
「わたしの名前を思い出させてくれてありがとう。
あなたにも、名前をあげましょう。」
そうして彼女は言いました。胸の奥からするすると自然に出てきたその名前を。
「あなたは、ニシメ。」
ぬいぐるみはその名前を静かに、噛み締めるように復唱しました。
「……ニシメ。」
「ええ、あなたの名前は、ニシメ。」
そうして不安げな表情を浮かべてこちらを見つめるニシメと目が合ったそのとき、イリニは、いつの間にか自分の頬が濡れていることに気がつきます。
その感情とは、懐かしさでした。しかし彼女には、この胸が締め付けられる懐かしさの理由がわかりません。
彼らはまさに江西とモモそのものでした。非業の死を遂げた二人の魂は海に還ることができず、奇跡的に戦禍に巻き込まれずに済んだひとつのぬいぐるみと、一体の人形に憑依したのです。
しかし、そのさいに生前の記憶はすべて失われてしまいました。ただ、かすかに残った心が懐かしさとなって二人を揺り動かしたのでしょう。その感情とブローチに彫られた"IRENE"の文字だけが、彼らの昔と今をつなぎとめる唯一の手がかりでした。
「あなたにずっと会いたかった。」
こぼれる涙を堪えようともせずにイリニがそう呟くと
「ああ。不思議と、貴女を守らねばならぬと使命感に駆られるのです。」
ニシメはそう静かに答え、
その涙を拭うように彼女の元へと歩み寄り、目を閉じます。
「ですから今度こそ私は、貴女を守ってみせましょう。イリニ。
私もずっと、あなたと共にありたかった。」
それを聞いたイリニは、泣きながら微笑みを浮かべると
なにも言わずに彼の体を抱きしめたのでした。