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5月の追福

過去の愛に

囚われ続ける少女の話

目を覚ました時、そこは美しい花畑でした。

 

「−−ここは」

 

小川がせせらぎ、空は青く澄みわたり、草花が風に唄い、小さな太陽がすべてを優しく包み込む、それは夢のような場所でした。

 

「ああ、やっと目を覚ましたのね。」

 

背後から声がして振り返ってみれば、紫色の長い髪が特徴的な、黄色のドレスを着た人間が立っています。

人間は言いました。

 

「おはよう、私のかわいいお人形さん。

はじめまして。私の名前はエレスセリア。」

 

「お人形、さん……?」

 

ふと自分の格好を見てみれば、フリルのたくさんついた上等の赤い洋服を着ています。その手足は小さく、動かしてみるとキコキコとなにかが擦れ合う音がするのでした。

 

「あなたの名前はフローレンス。私、ずうっと考えていたの。ねえ、気に入ってくれるかしら?」

それを聞いた途端、あたりに風が吹き抜けて、草花がざわめきます。

ひどく、頭痛がしました。

違う。違う。なにかがおかしい。暫しの沈黙ののちに、彼女はすべてを思い出しました。

 

「……違う。」

 

忘れもしないあの日、あの国の崖の上で、

 

「えっ?」

 

愛する人と離れ、やってきたあの地で、

 

「違う。わたしは……わたしは……イノセンス。」

 

イノセンスは死んだのです。

 

「なぜ、どうして。どうしてわたしはここにいるの。わたしは、あの日……!」

 

「昔のことを思い出しているのね。」

 

はっとして見上げてみれば、不気味なほどに優しい微笑みをたたえて、エレスセリアは自分と目を合わせました。

 

「大丈夫。そのうち昔のことなんて、すぐに忘れてしまうから。」

 

「……どういうこと。」

 

そして、こう続けたのです。

 

「あなたは生まれ変わったのよ。ここには、永遠の幸せがある。辛い過去なんて忘れてしまって、ここで永遠に、共に生き続けましょう、イノセンス。いいえ、フローレンス。」

 

突然の宣告に、頭がついていきませんでした。生まれ変わった?永遠の幸せ?永遠に生き続ける?死んだはずの自分は、このだれともわからない人間によって蘇らされたというのでしょうか。一体、なんのために。

 

「そんな……そんなこと……!」

 

狼狽える中、エレスセリアの後ろから小さなふたつの影が顔を出しました。

 

「わーっ!あたらしいトモダチだ!」

「女神様、この子も私たちの仲間なんですか?」

 

その姿こそ違いましたが、二人の声と、喋り方には覚えがあります。イノセンスには分かりました。二人は、どう考えてもミッチェルとドロシーなのです。思わず立ち上がり、その名を呼んでしまいそうになりましたが、それより先に、彼女たちは言いました。

 

「ボクのなまえはキャンディ!」

「私はマドレーヌです。はじめまして。あなたの名前は?」

 

その瞬間、先ほどの人間の言葉が嫌という程、頭を駆け巡ります。

『大丈夫。そのうち昔のことなんて、すぐに忘れてしまうから。』

 

「わたしは……。」

 

彼女たちは、あの日の出来事をすっかり忘れているという風でした。無邪気で、無垢で、ただただ幼くて、なにも知らない、まっしろな子供でした。そうでなければ、二人はこんな様子ではいられなかったでしょう。

わたしはイノセンス。そう答えたいのに、なにか底知れぬおそろしさを感じたイノセンスは、なにも答えられません。

そしてそのまま、走り出してしまいました。

慣れない身体に戸惑い、球体関節がギコギコと音を立てます。

 

気がつけば、だだっ広い野原に一本だけ佇む大木の近くまで来ていました。その木陰には、二人の小さな女の子が座っています。

 

「ねえさま、知らない方が……。」

「ノエル、大丈夫だ。」

 

女の子たちは囁くように会話をしていました。やはり、二人の声と、喋り方には覚えがあります。それぞれの名をソノラとノエルだと云う二人は、紛うことなくクラリスとアリスでした。一言二言、話をしてみましたが、彼女たちもまた、あの日のことをすっかり忘れていました。

イノセンスは確信しました。あの日死んだはずの5人は、一様にこの地へ集められたのです。そうして、5体の人形に作り変えられたのです。

さらには、自分の推論が正しければ……

 

「この子はフローレンス。あなたたちと同じお人形さんよ。よろしくね。」

 

と、その時、先ほどの人間が背後まで迫っていました。

違う。わたしはフローレンスじゃない。わたしたちはあなたのお人形なんかじゃない。そう言いたくても、まるで強い力で押さえつけられているかのように、口が動きません。

イノセンスはここで抵抗することをあきらめ、人間を連れてクラリスとアリスの元を離れると、こう聞きました。

 

「あなたの目的は、なに?」

 

人間は答えます。

 

「永遠に幸せな世界を作ること。それだけよ。」

 

あの日5人が死んだことを覚えているのが、自分1人だけであったことは、必然でしょうか。それとも、偶然でしょうか。

本当は、なにも思い出さない方が良かったのかもしれません。自分よりも小さな人形になってしまった あとの4人と同じように、なにも知らないまま、目を覚ましていた方が幸せだったでしょう。

そう、自分の推論が正しければ、ここにジェナはいません。

彼女はなによりも早く、ジェナのことを思い出していました。誰よりも愛しいその人は、この"幸せな世界"にはいないのです。

自分が死んでからどれくらい経ったのかも、ジェナが生きているのかも、仮に生きていたとしても、今どこでなにをしているのかも、なにもわからないこの世界で、ただひとり、永遠に生きてほしいのだと人間は言いました。

 

「……あの人がいない世界に、幸せなんてない。あの人の代わりなんていない。あの人なしで、わたしはどう生きていけばいいというの。」

 

イノセンスはたまらなくなって、人間に訴えました。しかし、人間––エレスセリアからの返事はこうでした。

 

「うふふ、大丈夫。幸せなら、ここにたくさんあるじゃない。かわいらしいお花畑だって、うつくしい小川だって、あたたかい木漏れ日だってあるわ。昔のつらい出来事なんて、忘れてしまうぐらいの幸せが。」

 

女神エレスセリアは言いました。変わってしまうことはおそろしいことだと。楽園を作り、従者を侍らせた彼女がいちばんほしかったのは、変わらない幸せでした。

幸せな世界を変えないために女神が従者に選んだのは、過去を忘れ、未来を断たれた死人たち。彼らは、永遠に変わらない世界で変わらない幸せを彩り続けるのです。

 

「死者が蘇ることの、なにがいけないというの?

わたしは、永遠に変わらない幸せが欲しい。ねえ、みんな、そうではなくて?

死ぬほど苦しい思いをしたのだったら、そのこころが救われる場所があったっていいじゃない。ここには変わらない幸せがある。もう二度と、苦しまなくたっていいの。苦しみや悲しみを忘れて、永遠に優しい世界で生きていけばいい。」

 

こうしてイノセンスは名を捨て、フローレンスに生まれ変わりました。自分以外の誰かが過去を思い出してしまえば、女神だけでなくドロシーやミッチェル、クラリス、アリス……いいえ、マドレーヌやキャンディ、ソノラ、ノエルのしあわせな生活が崩れ去ってしまう。そう思ったからです。

 

「……人間。いいえ、エレスセリア。あなたは間違っている。自らの幸せのために、死者の魂を弄ぶだなんて……。けれども、分からない。一体どうすればいいのか。わたしには、あなたを批判する権利などないのかもしれない。

……ただ、これだけは覚えていて。この生活は、いつか破綻するということを。永遠の幸せなど、存在しないということを。」

 

しかし、それでも彼女は、過去にすがるのをやめることはできませんでした。そのこころが、本質が、イノセンスであることをやめられないように。この先ひと時も、ジェナのことを忘れることはできないでしょう。

いつか、この"幸せ"が破綻するその日まで。

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